ちょっと、俺

日常のちょっとしたこと

何回忌かも分からない祖父母の法要に思うこと

11月に父方の祖父母の法要があるので帰省するように親から言われた。そういえば、祖父母の墓参りなんて、最後に行ったのはいつかも覚えていない。

 

父方の祖母が亡くなったのは私が小学校2年生の時で、祖父は私が小学5年生の時に亡くなった。母方の祖父は私が中学校2年生の時に亡くなり、祖母は中学校3年生の時に亡くなった。

 

母方の祖父母とは離れて暮らしていたし、あまり付き合いも深くなかったので、記憶らしい記憶もほとんどない。何年かに一度夏休みに帰省するくらいだと、祖父母との思いでなんてその程度なのかもしれない。田舎の集落出身だった母親はその集落が大嫌いだったようで、祖父母が亡くなった後はその集落にはほとんど行っていないので、必然的に祖父母の墓参りにも何度も行っていない。私は祖父母が亡くなった後、墓参りに行った記憶すらない。

 

父方の祖父母は子供の頃一緒に住んでいたし、仙台に住んでいたので毎週のように会っていたため、記憶もよく残っているし、愛着もまぁまぁある(と思う)。亡くなったときはそれなりに悲しかったのも、なんとなく覚えている。

 

多少なついていた祖父母とはいえ「法事は面倒くさいなぁ~」くらいにしか思っていない。

 

外国人の妻に「法事って何?」と聞かれたときに「葬式のリピート」と答えるくらいの適当な宗教観の私だからこんなことを考えるのかもしれないけれど、死んだ人を供養し続けるためにもう何回忌かも分からない法事をして、安くはないお布施をお坊さんに払い、子供には交通費を払い、家族で会食を開いてという、一連の流れが無駄に思えてしょうがない。

 

両親としては法事を理由にして子供を仙台に呼んで一緒に食事でもしたいという思いもあるのかもしれないけれど、GWに盆、年末年始と一年に三回も孫付きで帰省すればそれで十分だろうとも思う。

 

お坊さんは商売あがったりだと思うけれど、死んじゃった人なんてどうせ何も分からないんだから金とか時間は生きている人に使うのがいいんじゃないかなぁ、と、最近そんなことばかり考えている。

 

供養を続ける遺族の気持ちの問題もあるだろうけれど、死人に金と時間を使うよりはもっと別な方法で生きている人に金と時間を使うことができるんじゃないかなと、そんなことばかり思う。供養してもらえないと寂しいかもしれないけれど、死んじゃったらどうせ分からないんだし。

 

「私が死んだら一回忌の法要後の全ての法要はしないでいい、金をは生きている人のために使え!」と娘と妻には伝えている。気が向いたら墓参りに来るくらいでいいよ、どうせ死んじゃってるんだから。

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